先日、国立能楽堂にて演じられたお能「隅田川」に招待して頂いたのだけれど、前評判同様、これまで触れた事の無いほどにゆったりとした時間軸で進行する様に驚いてしまった。僕自身を招待してくれた方もそうだけど、来場者は俗に言う「お偉いさん」が多いようで、隣席は某市の市長だったりとブルジョア的な一種の見せ物を体感した気分になった。人生に一度は見てみた方がいい、と僕は強く推すけれど、二度三度、と興味が続くことは難しいような気もする。
まさに未知との遭遇だったわけで、僕は演目中「何故このようなものが六百年間もの間に淘汰されずに今日も残っているのだろうか」といった問いを答えに導くべくあら探しを延々としていた。動きは極端に少ない、入場だけに10分〜20分もかかる、文庫本1ページ分の内容を1時間程度かけて読む程にゆっくり、と、時間に追われた現代人の生活を思うとあまりにもそれは贅沢な時間の使い方だった。
そもそも、僕がお能に行くとは「?」な人も多いことだと思う。その秘密はここ数年の僕の精神性の変遷にあって、興味あるもの、無いもの、の境界線をぼやかし、自分との関係性を全ての対象に拡げることによって、未だ触れていないものを虱潰しに触れていき、あらゆるものを体感しようと企み始めたからである。手塚治虫氏の「いちばん面白いマンガを書きたいならマンガ以外のことをたくさんしろ」ではないけど、あらゆるものを見て触れた経験がいつしか僕のひとつの作品に映ればそれでラッキー。そんな発想から、何にでも顔を出している。歌舞伎から骨董市、就活からホームレス、エロ本から倫理書まで、なんにでも実際に触れてみる。日を改めて書くが、つい最近では知らない人たちと河原で家をつくったりもした。とにかく、自分がひとつの絵になった、なんていう幻想は今一度捨て、自分が今日も真っ白のキャンパスであることを日々知らせ、日々絵を描いていくことにした。とはいえ、歌舞伎やお能に招待してもらえたり、通常はお目に掛かれないものに声を掛けてもらえる幸運も、僕がすべてに触れようと思える一つの風向きなのだと思う。
話は国立能楽堂に戻り、三部構成の内の一つの狂言にも触れるとすれば、その演目にてシテを演じた野村萬斎氏の演技はどこか懐かしい面白味があった。彼は映画「陰陽師」だけでないのである。と改めて思ったりした。野村萬斎氏で思い出したけれど、昨年、市川団十郎氏、市川海老蔵氏による歌舞伎の開演前日稽古に呼んで頂いた際のこと。香川照之氏のお父さんであり、歌舞伎界の大御所である市川猿之助氏が歩くのもままならない様子で両脇を親族に抱えられて僕の前方に入って来た。あの調子では普段はおそらく車椅子で移動しているのだろう。稽古を終えた海老蔵氏がさっそく猿之助氏のもとに挨拶をしに駆けてきたのだけど、しばらく話し込んでいる。するとよろよろだったはずの猿之助氏が一瞬演技指導の為に立ち上がり、数秒間見得を決めた。僕はその姿、その所作のあまりの美しさに言葉が出なかった。歌舞伎に対する知識が殆ど無い僕にもわかる完璧な動きだった。横でそれを共に見ていた解説者の方も唖然としていて、「今の見ました?」と僕が尋ねると「すごかったね〜、驚いたね〜」と2人して目を見開いたまま感動していた。その時僕は、一流とはこういうことを言うのかもしれないと漠然と思ったのだった。年齢や状態や状況やあらゆるものを越えた力が宿る事、そんなかんじがした。結局、お能の話では無くて歌舞伎の話になったね。話がすぐ脱線する学校の先生が好きだったな。
2012-05-16 03:33:22|投稿者 : クロカワリュー